鶏足寺縁起

始まりは「鳴山」から生まれた一尊の石仏

その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。

数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。
奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。

仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。
境域を大きく広げ、釈迦堂を始めとした八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられたたことで、お寺の構えが整いました。


本堂

平将門の乱と「鶏足寺」の誕生

天慶二年(939年・平安時代初期)、下総国(千葉県北部)で勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。
朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。
秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。

五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。

満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。
はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。
お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。

やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。
この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。

仏陀の福音を現代、そして未来へ伝える

寛元元年(1243年・鎌倉時代中期)、後嵯峨天皇から宣旨がくだり、鶏足寺は皇子誕生のご祈祷を仰せつかり、五大明王の絵像(栃木県指定文化財)と大刀力王丸(国重要文化財)が下賜されました。
そのご祈祷の霊験により、皇子さま(後深草天皇)がお生まれになりました。

弘長三年(1263年)に、足利泰氏(智光寺殿)の発願で、父義氏(鑁阿寺開基義兼の子)菩提のため、梵鐘(国重要文化財)がつくられました。

文永六年(1269年)、下野薬師寺長老慈猛(じみょう)上人がこの寺に迎えられました。
それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった真言宗慈猛流の全国総本山として密法専修の道場となりました。
全盛時は、山内に二十四院・四十八僧房を持ち、全国に三百六十余の末寺があったと伝えられています。

天文二十二年(1553年・室町時代後期)、戦国時代の騒乱の中で鶏足寺は兵火にかかり、勅使門を除く寺の堂舎はすべて焼失しました。
現在の本堂は江戸時代中期の正徳三年(1713年)に建立、護摩堂(五大尊堂)は享保十七年(1732年)に建立されたものです。

それから現在まで、激しい時代の移り変わりにあいながらも、開創千二百年の法燈は絶えることなく、今に、済生利人の法幢を高くかかげて、仏陀の福音をつたえております。


胎蔵界まんだら